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04.20.19:54 [PR] |
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01.08.06:31 カレッヂ生活 |
職業柄、通訳・翻訳は日本の取引先相手によくしてたのだが、今回イギリスに来て初めて日本語の英訳をする機会があった。ただし題材はこれ。
http://image.blog.livedoor.jp/akechi_mitsuhide/imgs/7/d/7d8ff427.jpg
「明智左馬之助湖水渡之図」という。
現在自分は、ケンブリッジ大学に全部で31あるカレッジのひとつ、Hughes Hallというところに寝泊まりしている。
このカレッジは1885年に創設された、ケンブリッジの中では比較的新しいカレッジで、当初は女性のみを受け入れるカレッジだったという。その創設メンバーのHughes女史は、19世紀末のイギリスで巻き起こった女性への教育解放運動の先駆者で、カレッジ設立後、今度は世界各国を訪れ、気合の入った外国人学生をHughes Hallに招く運動を展開したという。

(↑ Hughesおばさん、若い頃の写真しか残ってないのはさすが)
その中で、同女史は特に日本に長く滞在し、1900年当時の日本財界にも顔が利いたそうなのだが、その流れで美術品をいくつか持ち帰り、その一部はHughes家で保管していたらしい。
今回それが改めてカレッジに寄贈されることになったはいいが、果たしてこれは何の絵なのか、Hughes家でももうあんまり分かっておらず、ところどころに書いてあるChinese letterは何を意味しているのか、お前分かるか、というのが今回の趣旨。
正直、書いてあるのは漢文調で、おいおいそんなん分かるか、と思ったのだが、GoogleとWikipediaを駆使しまくり、なんとか趣旨は解読。ついでながら、絵(版画だったけど)自体も、明智光秀が秀吉に敗れた際の明智家没落のワンシーンだったらしく、さも知ってたかのようにWikipediaの英訳をおまけで付けて、作業完了。しかし、漢和辞典ってオンラインでは無いのね。
作業自体は誉められたものではなかったが、日本語Googleを叩きながら聞いたカレッジ初期の逸話はそれなりに奥深く、歴史があるというのはそれだけですげえなあと思っていた。
考えてみれば1900年というと、日英同盟ができ、日露戦争に突入し、イギリス製の軍艦でロシアに勝ってしまって一躍世界から日本が注目された頃か。そこから100年も経って、まさかオレとGoogleに訳されるとは思ってなかっただろうが、とにかくジャパニーズ戦国武将の名が末長くケンブリッジに残ってくれればと願う。
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01.05.08:41 New decade |
2010年も4日過ぎた。あと361日。
そういえば欧米的文脈では、2010年になったということは"New decade"になったという感覚らしく、テレビなんかでも2000年代はこんな世界だった、その前の10年はこんなん、よって次の10年はこうだ、みたいな語られ方をしている。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/magazine/8406898.stm
(PDFに入ってる画像はなんかイギリス人の感覚が見えてよい。オバマ小さすぎ。)
世界のことまでは到底語れないが、あえて自分の今までを10年ごとに振り返るとこんなんか。
1980年(1歳):
覚えてない。とりあえず静岡の田舎の片隅で寝ていた。
親父は当時28歳、たしかこのあたりから自分の会社を始めようとしていた頃。そう思うと自分はまだまだやと思う。
1990年(11歳):
小5。相当生意気ながきんちょだったと記憶。狭い町がなんだかしんどくて、近所の公民館で半年遅れの映画を見ながら「オラ東京さ・・・」などと思っていた。
2000年(21歳):
大学3年。19で東京に出てきたものの、完全に浮足立っていたおのぼりライフを激しく後悔、もっと硬派になりてえぜ的な気持ちで、なぜかリングで戦う生活を選択。毎日トレーニングに明け暮れ、やり過ぎて翌年体を壊す。長らく寝たきりにもなったが、自分を見つめなおすきっかけになったし、復活できたので結果オーライ。
2010年(31歳):
なぜかまた学生。21の時、一度死んだ気になって、オレの人生やってやるぜと思ってから早や10年。中東にも行ったしイギリスにも来たけど、まだ行く先が見えない。そういえば20代後半から、「お前丸くなってよかったね」とか言われて褒められたと勘違いしていた部分あり。あかんあかん。
2020年(41歳):
40にして惑わずと言えれば理想。その為には30代、全力で自分の可能性を探りたい。
いつも元気なオッサンでありたい。大声で話し、同僚と背中を叩き合い、全身全霊で酔っ払える中年を目指す。
というわけで今年はもう一回とがる年にしたい。人生どこに向かってとがるべきなのか、まだまだ分からないが、毎日毎日を気合いで突破し、悔いのない日々を送りたい。やっちゃります。
そういえば欧米的文脈では、2010年になったということは"New decade"になったという感覚らしく、テレビなんかでも2000年代はこんな世界だった、その前の10年はこんなん、よって次の10年はこうだ、みたいな語られ方をしている。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/magazine/8406898.stm
(PDFに入ってる画像はなんかイギリス人の感覚が見えてよい。オバマ小さすぎ。)
世界のことまでは到底語れないが、あえて自分の今までを10年ごとに振り返るとこんなんか。
1980年(1歳):
覚えてない。とりあえず静岡の田舎の片隅で寝ていた。
親父は当時28歳、たしかこのあたりから自分の会社を始めようとしていた頃。そう思うと自分はまだまだやと思う。
1990年(11歳):
小5。相当生意気ながきんちょだったと記憶。狭い町がなんだかしんどくて、近所の公民館で半年遅れの映画を見ながら「オラ東京さ・・・」などと思っていた。
2000年(21歳):
大学3年。19で東京に出てきたものの、完全に浮足立っていたおのぼりライフを激しく後悔、もっと硬派になりてえぜ的な気持ちで、なぜかリングで戦う生活を選択。毎日トレーニングに明け暮れ、やり過ぎて翌年体を壊す。長らく寝たきりにもなったが、自分を見つめなおすきっかけになったし、復活できたので結果オーライ。
2010年(31歳):
なぜかまた学生。21の時、一度死んだ気になって、オレの人生やってやるぜと思ってから早や10年。中東にも行ったしイギリスにも来たけど、まだ行く先が見えない。そういえば20代後半から、「お前丸くなってよかったね」とか言われて褒められたと勘違いしていた部分あり。あかんあかん。
2020年(41歳):
40にして惑わずと言えれば理想。その為には30代、全力で自分の可能性を探りたい。
いつも元気なオッサンでありたい。大声で話し、同僚と背中を叩き合い、全身全霊で酔っ払える中年を目指す。
というわけで今年はもう一回とがる年にしたい。人生どこに向かってとがるべきなのか、まだまだ分からないが、毎日毎日を気合いで突破し、悔いのない日々を送りたい。やっちゃります。
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01.04.10:25 テスト勉強からの現実逃避、会計編 |
1学期の授業のテストが間近に迫っているのでやっと準備を開始。今回はCorporate Finance、Accountingに加え、Organizational Behaviorという組織論的な授業の3本のテスト。
Accountingの授業は、正直なところ、1学期の中では最もレクチャーのクオリティに不満が残った。時間が少ない1年制MBAなので、教科書ざっくり斜め読みになるのはしょうがないのだが、なんだか通り一遍の説明が多く、いいオッサンが50人も集まって考えさせられるような内容ではなかったように思う。
例えば暖簾の説明にしても、「本当にgood investmentだったらその価値は続くわけだし、減価償却はしなくていいよね」「制度でもそうなってるから」的な説明で、なんだかなあと思っていた。
本来、暖簾を償却資産とするかどうかなんてのは歴史上、各国で大いに対応が違っていて、会社に対する考え方を議論する恰好の材料(個人的には暖簾は償却資産とする方が納得できるなあと思ってきたが、ポイントは他の方のブログ、例えばこれ http://masaru320.mo-blog.jp/business/2009/01/post_7dc8.html 等を。)だと思うのだが。。
といいつつ、こういうことをさくっと英語で指摘できずに、流れゆく授業を眺めながら一人でウニウニしていたのも事実で、今学期のオレは違うぜと自分に言い聞かせているところ。
そういえば授業も終わった12月初旬には、日本で来期、2010年3月期からIFRS任意適用が認められることが正式に公布されている。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20091212AT2C1101W11122009.html
IFRSに一本化していく流れの中で、暖簾の償却はそのうち「ありえない」ことになっていくのだろうが、制度がこうだから当然こうなの、というような考え方には陥らないように気をつけたいと思う。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20091212AT2C1101W11122009.html
IFRSに一本化していく流れの中で、暖簾の償却はそのうち「ありえない」ことになっていくのだろうが、制度がこうだから当然こうなの、というような考え方には陥らないように気をつけたいと思う。
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01.03.08:34 コリアンビジネス UAEへ |
いきなりMBA関係ないのだが、仕事で縁があった国の話題がニュースになってたので。
UAE、アラブ首長国連邦での中東地域最初の原発建設を、最終的に韓国企業団が受注することになった。
http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704905704574621653002992302.html
もともとこの件は08年から入札が進められていたが、最終的な候補は①Total、GDFなどのフランス連合、②日立‐GE日米連合、③K-Power、Hyundaiなど韓国連合の3グループに絞られていた。
なかでもフランスはサルコジ就任以来、政治家も含めた海外トップ営業を積極的に行っており、この件でもUAEと原発協定を結んだり、アブダビにルーブル美術館はじまって以来の海外支店建設を認めたりするなど、硬軟両面で相当コネを強めていた。
そんな、業界関係者の誰もがフランスと思っていたディールを、最後にかっさらっていった韓国組の努力にまず驚き。技術力に関しては方式の違いなど色々あるのでここではカバーしきれないが、ビジネスの面でどう訴えたのか、非常に気になるところ。おそらく見た目の値段以上に、フランス人がとれなかったであろうリスク(建設コストの上ブレリスクを丸抱えするなど)を積極的にとったものと思われる。
また、UAEもUAEで、もしかしたらフランスを当て馬に、韓国の積極姿勢を引き出したという風にとらえれば、けっこうしたたかなのかもしれない。ドバイ金融危機の際に担当大臣が随分ナイーブな発言をしてたのとは正反対な印象。こっちはアブダビだけど。
こういう「史上初の」的な案件は多少のリスクに目をつぶってでもとるべきとは思うが、何分金額が兆円単位なので現場の交渉担当者の心労は想像に難くない。案件はとってからが勝負だが、まずはコリアンお疲れ、グッジョブと言ってやりたい。
原発自体は2017年に完工予定だが、問題はむしろオペレーションになるだろう。原発運営には繊細な管理が必要な一方で、UAEで肉体労働に従事している南アジア系の方々はかなり強気な皆さんばかり。何か言っても、だって暑いんだもんと言わんばかりにガチガチ攻めてきたのをなんとなく覚えている。コリアンも概して強気だとは思うが、そもそも韓国も日本も、原発の運営技術までは海外に出したことはない。すなわち自国民で運営してきただけ。
トヨタの工場運営を海外に出した時の苦労話なんかを読んだことがあるが、絶対に失敗は許されない原発ビジネスで、これから何が起きていくのか、今後も見守りたい。
しかし、こういう民主主義でも何でもない国で原発計画を認めておいて、一方イランを執拗に責めるというのは筋が通らないような気がするのだが、この点については単純に勉強不足なので、今度改めて考え直したいと思う。
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12.27.02:58 ブログ開始 |
渡航後114日目、帰国まで約20カ月。
留学開始後4カ月弱経つが、今更ながらブログでも始めてみようと思う。
留学開始後4カ月弱経つが、今更ながらブログでも始めてみようと思う。
最初の学期も既に終了し、何を今になって・・とも思うのだが、ここに来てから毎日色々なことを考える一方で本当に飛ぶように時間が過ぎ、今の自分の考えをどこかにしっかりと書き留めておかないと、ここでの体験が浅く広くあれもやったねこれもやったねで終わってしまう気がしてならず、さっき思い立った次第である。
日記だけは自分でポチポチ付けていたのだが、公開しない前提で書いていると、考えを整理しなくても済んでしまう為、後で見てみると結局本質は何だったのかよく思い出せない。また、当然だが日記上の感想は独りよがりでオッケーなので、意見を受け入れる柔軟性も議論の拡張性も無いことに気づく。よってこれはいまいち。
そもそもブログに躊躇していた理由は、社費留学の身であり、会社の人に見られたらめんどくせえなと思っていた部分が大きいのだが、これでも商社マンのはしくれ、なるべく世に先んじて物事を考えて、発信するのがむしろ義務であり、やいのやいの言われるリスクごとき取れずにどうするのだと今は自分を鼓舞している。
また、社費MBA留学が徐々に減る世知辛い昨今、会社として海外ビジネススクールに派遣する意味を実体験も含め改めて考え直してみたいと思っており、これを機に色々コメントを頂けるなら本望でもある。
また、社費MBA留学が徐々に減る世知辛い昨今、会社として海外ビジネススクールに派遣する意味を実体験も含め改めて考え直してみたいと思っており、これを機に色々コメントを頂けるなら本望でもある。
というわけで日記的な部分はあまり多くないだろうし、何だか前がかりなブログになるかもしれないが、燃え尽きない程度にやってみたいと思う。がんばります。
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